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事実離婚 “未来を一緒につくるための離婚”という新しいモデル

■ 結婚したまま別居する「事実離婚」

事実婚って、婚姻届けを出さずに共同生活をしている状態ですよね。
私はここにもう1つの意味、事実婚=結婚をしているんだけど離婚届を出さずに別居生活をしている状態。事実離婚を加えたいと思っています。


日本では結婚を基礎とした家父長制が共同体の基本となっているので、結婚をすることで得られるメリットが多く国から提供されていると思います。
ですが、離婚率の高まっている現代では、離婚をしたしわ寄せを受けているのは、主にシングルマザーかと思います。
そこで、事実離婚をすることで、国からのメリットを享受しながら次のパートナーを探したり、仕事を探したりする方が、感情的な面は置いといて、合理的ではないかと思うのです。

事実離婚は現実として既に存在していて、離婚前の調整期間とか家庭内別居とか呼ばれています。
更に、「子供が成人するまでは、我慢して夫婦生活を送る」といった、心は既に離れてしまっている状態も多いと思います。
これら既に存在しているものと、事実離婚はどのように異なるのかを整理していきましょう。

■ 既に存在している“似た状態”とどう違うのか

事実離婚と既存の存在(ここでは代表例として家庭内別居としましょう)の違いは、それぞれが次の生活を遅れる準備を行うことをサポートする点にあります。
私は現代の離婚の仕方に非常に違和感があるので、このような発想になりました。
身の回りにある離婚って、感情的にこの人とは一緒に住んでいられないから離婚+別居する、という構図になっていませんか?
カップルで様々な葛藤があるであろうことは承知していますが、結果として別れることに視点が行き過ぎて、その後に不幸な状況(=簡単に言うと貧困)になっている人が多いと思います。
結果として多いのが、シングルマザーにしわ寄せが行っていると思うのです。

■ 恋愛文化が作った“別れ方の型”

多分この行動をするのは、日本に持ち込まれた恋愛方法=自由恋愛の影響が強いと考えています。
付き合っている状態であれば、ダメなら別れて家を出ていくのは、普通の行動になります。
そんなシーンは漫画やドラマにありふれています。
むしろ、これ以外の別れ方を知らないんじゃないかって思います。

子どもがいない状態であれば、付き合っている時と同じように離婚することができると思います。
およそ夫婦共働きでしょうし、別れたところで従来の1人暮らしに戻るだけです。
「子供が成人するまでは、我慢して夫婦生活を送る」という人は、この状態になるのを待っていると言えます。
ですが、子どもがいる状態であれば話は別です。

■ 子どもがいれば事情はまったく別

人間の子どもを育てることはすさまじい量ののお金と時間がかかります。
大人1人で1人の子どもを育てるよりも、大人2人で1人の子どもを育てる方が負担は減ります。(実態ではなくあくまで数字の話です)
更に、日本では子育てしながら正社員として働ける企業はとても少ないです。
1秒も一緒にいたくない!別れる!を優先して、一時的なお金は得られるものの、その後はとても苦労することになります。

また、離婚した場合は子どもをどちらが引き取るかという親権の問題もあります。
日本では多くは女性が親権を得ることが多いですが、子どもにとっては結婚や離婚は関係なく父と母がいます。
(これは想像ですが)親権を得られなかった父親は、親権がなくなったから綺麗さっぱり忘れるなんてことはなく、どこかでサポートしたいし、
可能であれば新しいスタートを子どもが幸せな形で送り出してやりたいんじゃなかろうか。と思います。
子どもの方も、自分には戸籍上の父と母がいるだけじゃなくて、生物としての父親と母親がこの人たちで、それぞれに今のパートナーがいて、
今僕を愛してくれているのはこの人たち、ってことが分かるんじゃなかろうか。と思います。

■ 制度疲労:家父長制・戸籍・親権・永遠の愛というフィクション

前置きが長くなってますが、日本の家父長制、戸籍、親権、および結婚に対する永遠の愛情という妄想などと、離婚することの制度疲労があるのです。
多分、これらの離婚の想定は、駆け落ちとか不貞打ち首みたいな、やったら人生終わり、的な要素があると思います。
戦後くらいは、まだまだ家制度が強かったため、結婚は家同士のつながりとなり、離婚するにも家が出てきて
子どもはどうする、生活はどうする、賠償金だ、あれやこれやと外野が感情的だけない(ある程度)合理的な横やりを入れてくれました。
横やりを入れてくるというのは、自由を束縛する側面はもちろんありあすが、見ようによっては責任の一端を負ってくれる面もあります。
例え感情的な離婚であっても、責任の一端があるのであれば、一緒に味方になってくれたり、一緒に敵視をしてくれて、その後どうするかにも協力的になれる素地が生まれます。

ですが、そこも自由恋愛によって崩れています。

自分が好きになった人と、自分の意志で結婚する。

この考えはとてもロマンチックで親冥利に尽きますが、離婚時に外野の介入を入れない自己責任の装いが強くなります。
結婚する自由度はどんどん増えているのに、離婚する時には不貞打ち首、人生終わり、に1人で突入する構図になっていると感じます。

■ そこで「事実離婚」が登場する

そこで登場するのが「事実離婚」という考え方です。
事実離婚は、これまでの制度を踏襲しつつ次のスタートを2人で準備しようという、
これから別れようとするカップルとは思えないほどハートフルな考え方になります。

と言っても、ここからは通常の離婚調停?とやる事は同じなのかもしれません。
新しいスタートを切るために共通して重要になるであろう要素は2つです。

・経済的自立
・精神の安定性

この2つを子どもがいる状態で確立することがゴールとなります。
そして、これを達成しずらいのがシングルマザーになります。

■ 経済的自立を準備するための“猶予期間”としての事実離婚

まず、経済的自立を果たすのが難しいのは、日本社会の働き方、昇給の仕方などの制度面・文化面でハードルがあるのは言うまでもありません。
このハードルを少しでも低くしようとするのが事実離婚です。

現在シングルマザーで、フルタイムで働けるか分かりません、子どもが発熱したら行かなくてはなりません。という人と、
パートナーも働いていますが、私のフルタイム勤務に協力的で、子どもの対応は分担してくれます。(まだ結婚している状態)という人。
能力が同じなのであれば、企業にとって採用しやすいのは後者です。

日本の企業は採用したら解雇するにはハードルが高いので、入社するところをこれで突破します。
また、事前に能力を付けておくにしても、パートナーがいて子育てを分担し収入も確保しながらやっているのと、
子どもの世話をしながら貯金を切り崩してやりくりするのでは、精神的な負担感が違います。
(パートナーが従うかは分かりませんが)すぐに離婚をしたいという感情的な面をコントロールすることで、少しでも準備を進めることができます。

■ 精神の安定性:住む場所・地域文化・世間体

次に、精神の安定性です。
精神の安定性は様々な要素で構成されていますが、収入面の安定を基礎に、どこに住むか、誰と住むかがの影響が大きいと思います。
結婚すると多くの人が同居しているので、新しい住居を用意して、シングルマザーとして住むのが苦にならなければそれでよいでしょう。

住む場所というのは、周囲の地域にも入っていかなければなりません。
日本では田舎に行けば行くほど、伝統的な家父長制+母性論が強いので、シングルマザーが来ると、簡単に言うとびっくりしちゃいます。
気の使い方も良く分かっていないので、あらぬ方向の気の使われ方もすることでしょう。
ですが、そこに住んでいるのが夫婦なのであれば、老人たちの良く知っている形態なので緊張感がなくなります。

母親が仕事ばっかりしていて子どもがおろそかになっている。
母親が夜に出歩いている。

みたいな、口には出さないけど感じてしまうことの入り口を、事実離婚によってカバーできます。
夫は単身赴任しているとか、自分もフルタイムで働いている、と言うのは普通になってきています。
シングルマザーという認識がないだけで、あっちの家はあっちの家、うちとはあまり関係がない。という家制度を勝手に展開してくれます。

■ 新しいパートナーを先に探すという発想

新しいスタートを切るために2つの要素を自分で(それぞれ)用意することは、子どもがいる状態ではなかなか難しいものです。
あえて書いてきませんでしたが、実はこの2つをいっぺんに取得できるのが、新しいパートナーを獲得することです。
私の違和感ひとつに「どうして離婚してから新しいパートナーを探すんだろう」があります。
これは子育てが忙しくて恋愛なんてしている時間がない、という時間的制約が1つ。
結婚していて子育て中の人を好きになってくれる人はいない、という決めつけが1つ。
結婚している時に恋愛したら浮気や不倫になっちゃうじゃないか、という法律的+道徳的な縛りが2つあります。

事実離婚では、現パートナーの協力により、時間的制約をカバーすることができます。
決めつけ、はあまり実態と即していない(子育てや結婚と魅力があるかどうかは関係がない)。
法律的なところの問題があるのは、ここは制度の変更を頑張って欲しい。
道徳的なところは、これが問題にならないように事実離婚状態に契約を結ぶってことです。

つまり、法律的なところ以外は「新しいパートナーを探していい。むしろ、この時間がある時に探しましょう。」という認識です。
新しいパートナーが経済的自立と精神の安定性を与えてくれるのであれば、自分でそこを短時間でどうにか整える必要がありません。
(まぁ、同じ轍を踏まぬように、全部お任せにはしない方が良いとは思いますが)

■ 海外の離婚観との比較

海外(フランス)の離婚事情を聞いたときに、その離婚率の高さ(50%)には驚きましたが、もっと驚いたのは離婚理由です。
端折って言うと、「新しく好きな人ができたから」ってのが理由になります。
日本では、顔も見たくない!というネガティブな感情で別れていると思いますが、海外では未来を見てポジティブに離婚しているのです。
日本では離婚することにパワーを使いすぎて、未来を見ずらいのだと思います。
最初に未来を見ておいて、後で過去を清算するって思考が、事実離婚です。

■ 結婚時にはこれくらいの契約があっても良い

私が感じる違和感の1つに「永遠の愛を信じ切って結婚しているんだな」があります。
ここら辺が、愛をイデオロギーと感じてしまう理由になります。
日本の制度と文化として、結婚をする入り口はすごく広いのに、離婚は人生終わり、があります。
少なくとも結婚をするその時は、一生の愛を誓いあうのであれば、離婚する時は事実離婚をしてお互いのスタートが切れるようにする。
ってのも愛の一部だと思うわけです。
生命保険のCMで同じようなこと言っています。

私は永遠の愛はフィクションだと思っていて、実際にフィクションだと思います。
であれば、事実離婚が開始する期間を決めて、実行する内容を決めておくのは、その瞬間の本当の愛になるんだと思います。

■ 事実離婚への反対意見と、その背景

ここで事実離婚への反対に目を向けてみましょう。
結婚中に「別れる前提の結婚」「結婚中に新しいパートナーを探す」「経済的自立をせずとも許容できるような社会にした方がいいのでは?」
この辺りが共感できない部分でしょう。

ちょっと話は変わりますが、私はこの辺りは人間の認識の共通的な傾向だと思っています。
何でも、自分自身に起こっている、として捉えるところです。
良いか悪いかは別として、自分が今、その環境に陥ったとして今の自分がどう感じるかをアウトプットします。
この能力は他人の良い体験や悪い体験を自分に当てはめることで、同じ轍を踏まないようにしたり、同じ経験をしたりするわけです。
ここに良くも悪くも共感があります。

事実離婚については、離婚する前提で話していて、いきなり離婚するよりは準備して離婚した方が良いよね。から始まっています。
なので、離婚するレディーの人たちには共感ができるかもしれません(割と沢山いるとおもいますが)。
ですが、離婚していなと(少なくとも自分は)思っている人には刺さりません。

ここに割と事実離婚の高いハードルが見えてきます。
離婚しようと思うのは2人の間で時間差があるってことです。
例え、離婚調停として裁判所に行かれたとしても、2人の認識には差異があると思います。
どの段階で「お互いが新しいスタートを切れることを考えよう」と思って、契約みたいな物を結ぶかは大きな問題です。

次に、大きな文化面での反対として、子どもが可哀そうと思うところです。
これは自分の幸せを考えると共に、子どもの幸せを考える場面でもあります。
子どもにとって一番幸せな状態とは、父親と母親が夫婦で幸せそうにしているのが良いのでしょうか。
であれば、結婚をしていなければ幸せではありません。結婚は単なる制度です。
母親と父親が幸せそうに生活していることでしょうか。
であれば、その2人が夫婦であるのかは関係がありません。

■ 子どもの“幸せ”を大人が勝手に決めている問題

私が考えるに、自分の幸せしか分からないんじゃないか?ってことです。
誰かの幸せは、たとえ自分の子どもですら、どうやったら幸せになるかは、自分の一方的な思い込みにすぎないってことです。
まぁ、それゆえに、なんでもかんでも自分に置き換えて考えるんだと思いますが。

ですが、子どもで言うと、子どもは割と柔軟に幸せを捉えられる存在だと思っています。
自分を大切に思ってくれる存在なのであれば、それが母親、祖父祖母、おじおば、近所のおばちゃん、などなど誰でも大丈夫で、
加算方式なんだと思います。
○○でなくてはだめって、典型的な減算方式の評価の仕方ですよね。
母親と今のパートナー、困ったときに助けてくれる父親と今の父親のパートナーがいたとして、
子どもにとっては4人の関係性ではなく、それぞれの名前で覚えると思うんです。
4人の関係性が大事になるのは、ずいぶん自分で考えられるようになってからなので、それをどう感じるかは当人次第です。

日本では、子どものことを心配はしているけど信頼はしていないって感じだと思います。
心配しているから、こう考えたらどうしようとか、こう感じたらどうしようとか、子どもがどう感じるかを先回りして推測し、事象から遠ざけたりします。
ですが、それは子どもを信頼していないのと一緒で、子どもにちゃんとした人格が無いと考えていると感じます。
子どもを育てる大人の数は多い方がいい(算数的に)
この考えをもとにしていこうと思います。

■ 事実離婚には思わぬ副産物

この事実離婚には思わぬ副産物があります。
1つ目は、読んでみると分かった通り「そんな夫なら別れないわ!」というところです。
その通り。
協力的になってくれる夫は、普通に便利な存在であり、便利な存在は安心できる存在であり、安心できる存在ってことは好きってことに繋がりやすいです。
事実離婚はいつでも後戻りが可能です。
どこまで戻るか(完全に元通りになる、別居は続ける、週末婚にする)のも自由自在。
離婚という、もうどうにも後戻りできなくなる前に、自分と相手を見つめ直す期間になりえます。

2つ目は、「女性の活躍を促進できる」ところです。
はっきり言って、日本で出産することは女性への縛りが大きすぎます。
これは制度と文化の両方からの縛りですが、事実離婚では女性の経済的な自立を求めます。
一家の補助的な働き方ではなく、一家の長としての働き方を求めるので、女性の活躍は促進できるはずです。

3つ目は、「結婚制度をハックして、事実離婚スタートする人たちが出てくる」ことです。
既に、離婚前提として結婚をする人たちが出てきていますが、これは暗に事実離婚をスタートしている人たちだと思います。
これがもう少し進めば、世間体的に結婚していて事実離婚中のステータスの人が増えると思っています。
日本の制度と文化的に、結婚していない人への妙な気づかいはまだまだ続いています。
これは、就職、住居、恋愛などの生活全般に大きな影響を与えています。
結婚しているというステータスは、日本で生活している上ではあった方が楽な面も多分にあるのです。
であれば、いつまでも結婚を周囲から言われるよりは、結婚している状態にしちゃうのは精神の安定性につながると思います。

4つ目は、「多分、結婚が増えて、出産も増えると思う」ことです。
少子化の時代、出産と結婚が相関していることから、日本は結婚と出産の奨励に余念がありません。
ですが問題は、結婚(入口)をしても離婚(出口)の制度が整っていないことから、結婚と出産は数を減らしています。
その方がリスクが少ないからです。
事実離婚は、離婚(出口)を制度面と文化面から拡充させるものです。
離婚をしても幸せ、という制度と文化ができることで、結婚と出産へのリスクが減り、結果的には結婚も出産も増えると思います。

■ 事実離婚などなくても幸せな社会へ

事実離婚などせずとも、幸せになる社会へ
事実離婚は現在の日本の制度疲労を考慮して、考えたものです。
「そんなの言ってもどうにもなんないよ。」は制度面で変えていく必要があるでしょう。採用とかね。
「そんなのズルじゃん。」なところはガッツリ制度を利用して生きていけばよいと思います。

でも、みんなが幸せな社会になるのが私の理想です。
ですが、何がどう幸せなのかって時間の経過と共に変化するよね、が私の違和感の始まりです。

結婚は幸せの絶頂だ

これはそうかもしれません。その時までの人生の絶頂という意味では。
でも、そこから幸せは急降下急上昇を繰り返します。
これを前提にした生き方をしていった方がよいんじゃなかろうかと思うわけです。

若手職員が辞めない役場を作るには、辞める人にフォーカスしてはならない

 日本の組織や集団は「閉鎖的」「同質的」「個人の未分化」という3つの特徴を備えており、それがメンバーへの同調圧力につながっている。もともと同調圧力には、功と罪の両方を抱えながら日本社会の隅々にまで深く浸透している。職場では言われなくても周りに合わせて身なりを整えるし、振る舞いや言葉遣いは先輩を見て学んでいく。半面、周囲の空気を読むと休暇を取りづらいとか、自分の仕事が終わっても周りが残っていると帰りにくいという声は、多くの職場から聞こえる。
 これは多くの組織で昔から言われていることで、これゆえにハラスメントが問題になったり、こういった同調圧力をかけないように気を遣う上司が生まれた。それゆえ、この縦方向の同調圧力というのは職場でも家でも他の組織でも「悪い物」とみなされるようになり、頑張って抑制しようとする動きが行われてきた。
 
 このような対策に悪戦苦闘しながらも取り組んできた自負があるだろう。「自分が若い時に比べて、今の職員は優遇されている」と感じることもあるだろう。にもかかわらず、現実には、若くて優秀な職員がどんどん退職していく。この状況に、昔ながらの人間関係や根性論がやっぱり大事なんじゃないかと思い直してしまうほど、頭を抱えている。実際に、若い職員の退職が出た時には「本当に地域のことを考えていたのか。」「公務員として自覚が足りない」などと考えがちで、次の職員の面談ではその点をよくよく確認して言質を取りたがる。(残念ながら、退職した職員も面接時点ではそのような旨のことは言っていたりする)
 はたまた、ひるがえって退職者からの退職理由をヒアリングして、職場環境や賃金の改善や、評価制度の導入、ストレスチェックにも力を入れだして、「今の職員は優遇」感が更に高まっている状態だ。
 
 だが、私はこれらの対処が的を射ていないと考えている。むしろ、より状況を悪化させているとさえ思う。その理由は、退職する職員の本音と、ヒアリングした結果が大きく乖離しているからだ。ヒアリング結果を真に受けて、対策をしても多くの場所で効果はない。
 
 まず、若手職員が退職(多くは転職)する時の理由の多くは以下のようなものだろう。
①     給与や待遇への不満関係
②     新しいことをやってみたい、自己実現関係 (自分のやりたいことが実施できない)
③     閉塞的で同質的な人間関係
この3つを組み合わせでほとんどの理由を記載可能だと思う。そして、気づくと思うが実は古くからこれらの理由は言われてきている。公務員の給与が安いのは今に始まったことではなく、定型作業を繰り返し、閉鎖的で同質的な人間関係があった。このようなありふれた理由を使うのには理由がある。この理由こそが本音となる。転職が売り手市場の昨今、今の職場にどす黒い恨みを持って退職することは少ない。もちろん、嫌いな人、気に入らない上司がいることはあるだろうが、それはどの組織でもある程度発生しうる。職場全てに恨みを持って退職する「坊主にくけりゃ袈裟まで憎い」状態の人は、稀である。と言うか、それほどに強い恨みを持つほど、仕事に全人格を注いでいない、と言う事も出来る。つまりは、退職時点で職場に恨みは小さい。と言って、全く不満が無いわけでもないのだが。
 この状態で、退職を決めた人に退職理由をヒアリングして出てくる本音は「もう辞めるのに、今更になって波風を立てたくない」だと考えられる。この結果として、給与・待遇という制度(簡単には変えられない)、自己実現という自分(僕が悪いんです)、ありきたりな人間関係(誰かを強烈に批判するのではなく、組織人事などの制度に近い)を出すことで、誰も傷つかずに「仕方ないね」と言ってもらえることを期待している。ヒアリングをする方も、明確に恨みを持って退職者を糾弾することもなく(糾弾したら本音が出るかも)、同意をすることで、波風立たずにその場が終わる。そして、満を持して「給与を上げ、待遇を向上させる」という焼け石に水的な対処に終始する。
 
 ここでもう少し本音について深堀したい。退職する人はどこかのタイミングで退職をしようかと考える契機がある。どうにもこの環境から逃避したい場合でない限り、転職活動を始める必要があるからだ。そのタイミングはどういった物があるのかが、辞めない職場を作る材料になりうる。「給与が低い」というのは、退職を考え出す、いわばマイナス思考をするようになって頭に浮かぶものだ。特に自治体職員は普段なら高給だから働いているわけではない(と僕は信じたい)ので、その傾向は強い。そもそも、給与が低い、というのは何かと比べた相対的な評価になる。すごい大変だけどやりがいがあって地域に貢献していると感じながら1人で働いているとき、給与が高いか安いかはマイナス思考に向かう要素としてはそれほど大きくはない。給与が安いと思うのは、誰かと比較した時になる。
 働かないおじさん、という単語を聞いたことは無いだろうか。かつては窓際族と呼ばれていた。公務員のように年功序列で給与が上がり、退職金の恩恵も多い日本的な組織においては、そこに留まることの恩恵がかなり大きいので一定数の窓際族が発生する。評価制度が不能な公務員では一定の割合で窓際族が存在している。大変な仕事に自分が従事していることについて、自分の給与が低いのは我慢ができる。その仕事を選んだのは自分だし、その仕事にやりがいも感じられるならなおさらである。しかし、自分よりも明らかに働いていない窓際族の給与が自分よりも高いことで、自分の給与が自分の想定よりも明らかに低いことが鮮明に自覚されてしまうのである。マイナス思考に陥ると、自分の能力に合った給与を出してくれる組織を意識したり、人事制度の硬直性、そもそもこれって自分がやりたいことなんだっけ?と考えだし、転職活動を開始して、退職する流れが始まる。
 このマイナス思考がはびこる中で、「給与を上げ、待遇を向上させる」の対策をするとどうなるか。公務員の給与を上げる、となると良くて一定額上昇、悪ければ〇〇%の上昇となる。例えば1%上昇となると、退職して欲しくない職員よりも、勤続年数だけは長い窓際族の方が恩恵が大きくなってしまう。休みやすくする系の対策も、既に休みやすい人には単純な追い風になるだけで、不均衡を是正する効果はほぼない。評価制度は本当に評価できるのであれば不均衡を是正できる、ような期待を持たせてくれる。だが、自治体職員は成果が非常に見えずらい職種でもある。1万人に影響する制度を考える職員と、数人の障がい者のために同じだけ働く職員、どちらの方が成果が高いかを判断することはできない。また計画も立てずらい。となると、成果ではなくて出社は10分前に来ているとか、態度が良いとか、残業をしている、などといった、職場に長くいられるプロ(窓際族)にプラスの評価になってしまう。いずれの対応も、良くて不均衡はそのままで、悪ければ更なる不均衡を生むだけである。私が「職員が辞めない役場を作るには、辞める人にフォーカスしてはならない」と考える理由はここにある。マイナス思考を考え出す契機は、様々な面で発生しうる不均衡に端を発する。だが、対応の多くは全体の底上げとなってしまう。こうなるのは、全会一致の意思決定が基本になっているからだ。要は、底上げだったら反対が出ないからである。不均衡を解消するには、不均衡にプラス材料(アメ)を与えるか、不均衡にマイナス材料(ムチ)を与えるかのいずれかであるにもかかわらず。
 
 どうすればよいかのパートに入るが、既に不均衡が発生している状況では、全員に統一に平等にという対応は機能しえない。(窓際族とかの)ある層の反対を受けながらも、不均一で不平等にも見える対応を入れるほかない。つまりは、窓際族にちゃんと(若人よりも多い、給与に見合った業務量)の仕事をさせて、仕事ができないのであれば罰則を与える、というのが結果的に「若手職員が辞めない役場をつくる」ことになる。

本音はどこにあるのか

日本人は本音をあまり話さないと思っています。
ホームページを作る時とか、こちらでデザインを考えて持っていくのですが、最初と言っていたことが変わるなんてのは日常です。
これも必要なラリーかなと諦めていますが、本音ってのはどこにあるんだろう、と漠然と考えています。

女性は本音をあまり話さないと思っています。
これは周囲の空気みたいなのを読んで、その場にあった表現をする、のように最近はアップデートされました。
でも、ほとんど嘘じゃん、とも思っています。
逆に、女性が何か意見を言うときは、セリフ内容よりも100倍くらいそう思っている、と感じています。
ちょっと寒いかな~は、めちゃくちゃ寒いと思っている。

このように、本音はいったいどこにあるのか、ってのはコミュニケーションを自然体で(ノリで)行えずに、やむを得ず頭で考えて(論理演算して)対応している私にとっては、
大事な問題になります。

飲み会で話題に出した時には、皆さん割と真剣に考えてくれます。
ですが、自然体で(反射的に)会話している皆さんには、経験則はあるものの、いちいち場合分けとか整理しているわけではないようです。
自分なりに頑張って考えた結果を書いてみようと思います。


本音がない場合と、あるけど出さない場合

まず、本音はどこにあるのか考えなければならないシチュエーションは、言ったことと本音が食い違っている場合です。
発した言葉がそのまま本音であれば、意に止める必要はありません。
問題となるシチュエーションは主に2つあります。(これはもっとあるかも)

Aパターンが、自分の中にそもそも本音がまだない状態。
Bパターンは、本音はあるんだけど、時と場合(便利な単語だなぁ)によって本音を言わないで別のことを言う状態です。

この2つのパターンについて、「本音はどこにあるのか」を考えていきたいと思います。


Aパターンが、自分の中にそもそも本音がまだない

ホームページのデザインが決まらない、あるいは後になって色々行ってくる場合がこれに当たります。
そもそも自分の中に確固たるデザイン(本音)なんてもんはなく、話したり見たり聞いたりしていく中でようやく本音みたいなものを発見しています。
それゆえ、ある程度の会話のターンが必要になり、相手の中で考える時間も必要になります。

見たり聞いたり話したり、と言うのが相手にとってのインプット情報で、考えるってのがブラックボックスの心みたいなもんで、アウトプットが本音になります。
相手の本音に気づかせてあげる系の仕事をしている人は無数にいます。
この仕事は納得できそうなインプットを無数に行い、腹に落としやすそうな本音に気づいてもらう仕事、と言うこともできます。
コミュニケーションスキルや忍耐が必要な、難しい仕事だと思います。

ですが、裏を返せば、誘導された本音であるとも言えて、コンサル側の意図が入ってしまいます。
こうなると、本音なんてのは最初から存在しないどころか、最後まで存在しないと考えがちですが、そうでもないでしょう。
先ほど「腹に落とす」と書きましたが、気づいていない本音は頭で考えずに腹で決めていると思っています。

本音がまだない状態から、頭で本音を決めようとすると、どうしても自分を納得させやすい方向に流れてしまいます。
ですが、自分の本音は元来、いつも綺麗なものとは限りません。
(弟が大切にしまっておいたプリンを食べてしまうことがある)

となると、決めるのは腹や直感になりますが、どこ?を特定したい私は今回は腹にしました。
つまり、自分では認識認知できない体の反応を測定できるようになれば、本音は計測できると考えました。
心拍数、血圧、瞳孔の大きさ、発汗、目線、体重移動、はたまた自分の血中の何かの成分をトラッキングできれば、自分がまだ気づいていない本音があると考えました。

ラッキングの技術がどれほど正確なのか、費用はどの程度かかるのかは分かりません。
が、ウェアラブル端末で自身の情報をトラッキングする流れは、今後も不可避的に進歩していきます。
となると、自分では認識していないけど、あなたの身体はこのような本音を言っています。とサジェスチョンされる未来が到来します。
身体は本音を持っている、即ち本音は腹にある、と言うことができます。

このサジェスチョンされた身体的な本音を、自分の本音とするかは人それぞれだと思います。
それこそ、時と場合によって身体的な本音を採用しないこともあるでしょう。
その状態は次のパターンBで取り上げます。


Bパターンは、本音はあるんだけど、時と場合によって本音を言わないで別のことを言う

私はこれを「嘘をつく」と呼んでいるのですが、ほとんどの人にとってはそうではないと言うことが分かっています。
多くの人が多くの場面で(っていうかほとんど?)、Bパターンを日常的に行っています。
今回は分かりやすい例で考えてみたいと思います。

4人でランチしていた時に話題に出た大人気のアイドルグループ。
どのメンバーが好きかという話で盛り上がったけど、後で2人で話をしてたら別に好きじゃないと言われてビビった。

よくあるシチュエーション過ぎてビビるんですが、これを本音と建て前とか、場の空気を読むとか、私だったら嘘をつく、と表現します。
この会話だけでは特に問題になりません。
ただ、話が盛り上がったら4人でコンサートに行けるようにチケットを手配しました!チケットは1万5千円です!会場は幕張で、車は私が出す~
みたいな感じになってくると、雲行きがあやしくなってきます。

この雲行きがどのように解消するのは置いといて、この時、本音はどこにあるのか、を考えてみましょう。
では、場の空気を読んで「(アイドルが)好き」と発言した人をMさんとします。
よくあるパターンでは、「好きじゃない」が本音で、「好き」が本音ではありません。
Mさんは場の空気を読んで、好きじゃないものを好きと発言してしまっただけ、と思われるでしょう。

ですが、Aパターンの身体的な本音を採用するかしないかのプロセスを考えてみてください。
そこではこう考えたはずです。

身体的な本音は本音ではないとして、その時と場合によって本音を選択している。

こう考えたとすると、Aさんの場合は「好き」が本音で「好きじゃない」が本音ではないと、なってしまいます。
つまり、AパターンとBパターンでは本音がどこにあるか違う可能性がある、と言うことです。

ここまで面倒くさい文章を読んでいるあなたでも、今はこう思っているのではないですか?
別に本音とか本音じゃないとかじゃなくて、どうでも良かったんだと思うよ。
そう、私もまさにそう思います。
Mさんが「好き」と「好きじゃない」のどっちが本音かを決めないといけなくなったのは、チケット購入と言う問題が発生したからです。

では、その会話の最中に本音はどこにあるのか。
会話の中で、本音は優先順位になっていたと思われます。

つまり、4人で仲良くランチの会話をするのと、Mさんが「このアイドル好きじゃない」と発言をぶちこむ、この2者を比較して前者を優先したのです。
そして、これがその時の本音です。
言われてみれば当然のような気がしますが、
人間は会話で言葉のコミュニケーションを超高速で行いながら、
自分の中にある優先順位と言う本音と照らし合わせて、使用する単語を超高速で選択していると考えます。

私は、人の会話の中で言葉がその意味通りに使われることはほぼなく、言葉に意味はない。と考えています。
これは、言葉がその人の優先順位によって白くなったり黒くなったりするのが日常的に発生しうる、ゆえにそう思えてしまいます。
「嘘をつく」と言ってしまうのも、人間の会話を頭で考えて処理をしている所以です。

「好き」も「好きじゃない」も本音でなくて本音であるみたいな感じになってきました。
では、その場で発言されたMさんの「好き」という言葉を頭ではどのように処理したらよいでしょうか。
この言葉を、実像にも虚像にもなりうるから処理しない、と切り捨てるには、あまりに世の中に情報量がありすぎます。

そこで私は、Mさんが会話の中で発した「好き」の言葉に、本音の「作品」という名で処理しようと考えました。
この作品は現代アートのようなものだと考えてもらって大丈夫です。
あの、缶詰が並べられた絵や、男性便器を置いた作品、みたいなやつです。

現代アートに詳しいわけではありませんが、あれって見た目の美しさを表現したものでなくて、
「これは芸術になりうるのか?」
というメッセージ性があるって感じですよね。

我々の目に入る情報をそのまま処理せずに、この時この場所にこの作品を持ってきたメッセージを考える。
この行為は、Mさんの「好き」と構図的には変わらないと思うのです。
なので私は、本音と建て前の建前の部分、空気を読んだ場に合わせた発言は、嘘ではなくて作品と呼ぶようにします。
こうすると、私たちは日常的に作品を創出し、この世界は作品にあふれかえっていることが分かります。
これで私もあなたもアーティストです。


私は「今日は無礼講だ!」を地で行く人でした。
でも、「今日は無礼講って無礼講じゃないよ」と人に言われて、自分のコミュニケーションが人と異なることを自覚しました。
その結果、コミュニケーションとはなんだ、どうして言葉を正確に使わないのか、空気ってなんだ、会話ってなんだ、
のようにもんもんと考え続けています。
その道中で出会った「本音はどこにあるのか」は、私の周りの人は本音を言わない(空気を読む)って言うのと、本音を知りたいという欲求から手に取ったのかもしれません。

今回の結論としては、本音は腹にある、本音は優先順位、となりました。
会話の中で頭をくるくるさせないと処理が追い付きませんが、処理を超高速で回して、本音がどこにあるのか認識しながら行こうと思います。

偶然に堕ちる人間の輪郭

西洋キリスト教の根底にあるのは「人間は生まれてきた理由があるはずだ」である。

それが原罪を償うためでも、人を愛するためでも、子孫を残すためでも、方向は違えど理由はある(理由はあるはずだと思っていると思う)それはまだ何か分からないけど、って感じ。
ただ、私は人間ってのは家電と同じと考えているので、偶然に電気が通りやすい回路があって、反射的に言動や感情を持っているにすぎない。家電は電気を通すと物を冷やしたり温めたりするのと同じように、人間もアクションと言う電気を身体に通して、周囲に何かしらリアクションをしている。だけなんだと思っている。なので、人間は偶然に生まれて、偶然に生きて、偶然に死んでいく。理由なんてないと言うか、全ては偶然とか確率、ってのが西洋史とかなり違うところ。(その偶然や確立をつかさどるのが神であるならば、ぼくの考えは一神教っぽくなってくる)


永遠の愛が存在すると信じさせたのは宗教の最上のフィクションであると感じている。

ましてや純愛が存在するってのも、みんなそろそろ嘘だと気づいているか、嘘だと分かっていながら使っているんでしょ。恋愛や結婚に不純物が混じっているのが普通であって、気分が合わないと簡単に別れちゃうから、安定的な社会を作っていくために「純愛」によって結婚したんだから分かれない方が良いってストーリーを作っているにすぎない。


2025年に自分の中でヒットしているのは輪郭という表現。

輪郭をはっきり認識するには、今見ている部分と反対の部分も認識しないとならない。例えば、美しいを認識するには、美しい輪郭に触れることが大事であると同時に、醜い方から美しい輪郭をなぞることも同じように大事だということ。大事というか、そうしてみると良く分かるということだ。理解が困難な事象は、この対の面を認識できないから、のことがある。例えば、役場職員にやる気を持って働いて欲しいから、評価制度を導入した。とすると、やる気がある人が評価されたやる気のない人が評価されない、という表裏を考えがちだ。だが、これは正確ではなくて、評価されない時間ならやる気をださない、という状態を許容しないといけない。この許容ができて初めて、やる気のある人を評価することができる。この表裏が認識できていないと、思いがけない結果になりうる。

人間関係の反転術式の難しさと可能性について

最近になって呪術廻戦を読みだしているんですよね。
悟さんかっこよすぎて、思わず指をクロスさせたくなります。

単行本で読んでいるんですが、呪力と術式の説明がありました。
呪力は電気みたいなもので、術式は家電みたいなもの、って書かれていて、ふむふむと思いました。
悟さんの術式でいうと、術式順転は引力で、術式反転は斥力みたいな感じで書かれていますね。

まぁ、漫画については置いといて、この順転と反転って自分にも使えないかな~と思ったわけです。
呪力と術式を家電に置き換えると以下となります。
電力(呪力) × 冷蔵庫(悟さん) = 食材を冷やす(術式順転 青)

んで、反転はこんな感じ
反電力(生の呪力) ×冷蔵庫(悟さん) = 食材を冷やさない?(術式反転 赤)

自分が着目したのは、冷蔵庫(悟さん)は変わらずに、入力が変わることで出力が変わっている点です。
とかく私たちは自分を改善しよう、成長しよう、変革しようと思いがちです。
草薙少佐も「世界が嫌なら自分を変えろ」みたいに吐き捨てています。

ですが、みんなが言っててみんなが納得する言葉ってのは「多くの人が実施不可能な夢や希望」である可能性が高いです。
自分は自我があって自己があって自認があってアイデンティティがある、と思っているんですが、
なんかもう、私に言わせてみれば自分なんてのは家電とあまり変わらないと思うわけです。

私の身体や反応は、電気信号が通りやすい所を偶然に走っただけで、その結果が身体動いたり感じたり自我とかアイデンティティとか思うようになってんだと思うのです。
つまりはこんな感じ

アクション(呪力) × 自分(家電) = リアクション(術式発動)

多くの人の悩みって、リアクションが世界とコンフリクトすることだと思います。
リアクションを変更するには、自分かアクションのどちらかを変更する必要があり、変更可能そうな「自分(家電)」の変更を試みます。
でも、自分ってのは家電だから、家電を変更することはとても難しい。(冷蔵庫は洗濯機にならない)

なので、変更すべきはアクションの方。
反転術式を発動するには、アクションを変更しちゃえば良いのだと考えたわけです。
では、アクションを反転するってのはどういうことなのか、を考える必要があります。

まず呪力で言うと、
漫画では、人を呪う呪力(マイナス)×人を呪う呪力(マイナス)=生の呪力(プラス)と書かれていましたが、多分それは違う、と思います。
どっちかと言うと、反対や否定に近いのかなと思っています。(ベン図でいうとこの余事象)

2項対立だと分かりやすいです。
呪いの反対は生かす、熱いの反対は寒い、2ビットの世界で1の否定は0になります。
2項対立がどうして分かりやすいかというと、輪郭がはっきりしているからです。
実は熱いー寒いの輪郭はハッキリしていないので、割と難しい。
輪郭がはっきりしないと、2項でも反対や否定を考えることが難しいです。
対象となる項の数が増えていけば難易度がさらに増えることは想像に難くありません。

んでは、本題のアクションの方に行きましょう。
アクションとはつまり「あなたの希望(どうしようとしているか)」になると思っています。

水が飲みたい × 私 = 水を飲む
みたいな感じです。
水が飲みたい × Aさん = 自販機で水を買う
って人もいますよね。
家電が違えばリアクションも当然変わってくるわけです。

発せられる言葉や行動も同じようなものです。
子どもに怪我してほしくない × 私 = 危ないものを子供から遠ざける
子どもに怪我してほしくない × Aさん = 転んでも大丈夫なように受け身を教える

んで、コンフリクトが発生しやすいのは、だいたいに置いて「私の術式」に対して「相手の術式」が受け入れられないからです。
ここで試したいのが反転術式です。
反転術式はアクションの反対や否定を自分にぶち込むことです。

ただ、あなたの希望は単純な2項対立ではないので、反対や否定を考えることはもちろん困難です。
でも頑張りましょう。
反転術式をすると、相手の術式を自分の中に受け入れられるようになります。

これには2つの工程で進みます。
まず、希望の反対や否定を考えるには、自分の希望の輪郭をはっきりさせる必要があります。
多分ですが、禅や瞑想やセルフなんちゃら~ってのに近い事だと思います。
次に、自分の希望の輪郭から、反対や否定を考えると、そのジャンルの全領域をカバーできるようになります。(ベン図の余事象みたいに)
多分ですが、空の概念とかでは、これを自分とか概念とかで考えてるんじゃないかな知らんけど。

全領域を認識することができれば、もちろんどこかで相手の術式が発動するポイントを見つけることができます。
数字がある領域だと分かりやすいですよね。
快適な室温に過ごしたい × 私 → 温度を上げる
快適な室温に過ごしたい × Aさん → 温度を下げる
私が反転術式を使えれば、領域のどこかでAさんの快適な室温にぶちあたるわけです。

現実では数字じゃないし、2項じゃないしで反転術式は非常に困難です。
でもまぁ、反転術式を出来るようになれば、自分を変えずとも世界とコンフリクト起こさずにやっていけるような気がしています。

主語と心地よさの葛藤

romaso-ha.hatenablog.com

自分で文章を読みなおしてみると、「私の人間関係」に変換するのは良い面もあるが、通用しない面もあると思う。
それは、実際に「私の人間関係」に話者と受け手が入っている場合だ。
例えば、親子関係なんかはそれに当たっている。
となると、「私の人間関係」に入ってしまっているので、そこでまたモヤモヤしてしまう。

もう少しちゃんとした変換が必要だと感じている。
ちょっとウンウンとモヤモヤと考えさせられることになったのだが、以下が結論として出て来た。
「私が心地よい人間関係を作るために私を含めあなたに推奨している行動」
全くもって長ったらしくて、逆にモヤモヤしてしまうかも知れない。
だが、これは割と人間関係形成過程そのもの、のような気がしている。

私に心地よい人は私の周囲にいて良く、私に心地よくない人は周囲にいてはいけない。
簡単に言うとこういう事になる。
ひどく自分勝手に聞こえるかも知れないが、人間は社会的な生き物で、森にこもってチーズを1人で作っているおじい、であってもこの行動をしている。
(心地よくない人が多いから森にこもっている)

みんな交通ルールを守っている→交通ルールを守らない人は警察に捕まる
みんな勉強している→私の周りでは勉強をする事で心地よい人間関係の中に入れる未来が来ると信じている
私の周りはみんないい人だよ→そりゃそうだ

という事で、いよいよもって主語を大きくする行為はバーナム効果狙いだという事が分かった。
分かってしまえば「この人は低コストでコンセンサスを得ようとしているんだな」と微笑ましく対応することが出来る。
まぁ、日常の会話ですからね、バーナム効果とかコンセンサスとか考えている人は、どれだけいることか。

・・・

置き換え対応は「自分の心に余裕を生み、適当に話しを受け流して、モヤモヤしない」ことが目的だ。
相手と敵対しないように、肯定も否定もせずに会話を素通りさせる手段だと思って欲しい。
なので、この置き換えしている事を、話者に伝えるとコンフリクトが発生してしまう。

自己啓発本の中には「どのように立ち回るか」が多くはびこっている。
同じような事を言葉を変えて書かれているような気がするが、大切な事は立ち回っている事を相手に(と言うか誰にも)伝えない事だ。
これはアンガーコントロールとかセルフマネジメントのジャンルになってくる。

一番簡単な方法は、相手の話の内容は聞かずにウンウンと相槌をうつことだ。
ただ、話の内容をしっかり聞いて、文章化して言葉の意味を理解し、相手のバックグラウンドやこれまでの言動を踏まえて会話をする人もいる。
言語領域の比重が高くなってしまう場合には、大きな主語がどうしてもモヤモヤしてしまう。

その時に、「私が心地よい人間関係を作るためにあなたに推奨している行動」という長ったらしい変換をするのは酷ではある。
が、話者が使っている意味合いとしても多分こっちの方が適していると思うので、息を吸うように変換しようと思う。
そして、息を吐くように曖昧な返事をしようと思う。
(アウトプットが話の内容を聞かずにウンウンと相槌を打つのと変わらない事も、割と重要である)

 

・・・


今後にもう少し考えたい事
・大きな主語はコンセンサス形成のためのバーナム効果を狙った言葉でしかないが、話者はバーナム効果を利用して心地よい人間関係を形成しようとしているのか、それとも強制しようとしているのか。
・心地よいは人により異なるのはその通りだが、マジョリティとしての心地よいはどのように作られるか(愛、平和、お金など)
・心地よいの個別化により、人間関係形成過程はどのように変化するか
・俺の同意は高くついている(という事を自覚できた)

スモモ vs プルーン: 田舎のフルーツ選び

今週のお題「この夏よく食べたもの」

 

貴陽 っていうすもも

 

長野県佐久穂町はプルーンを推しています。

有名なのは「ミキプルーン」ってジャムですが、長野県ではプルーンを生で食べるんです。生プルーン食べているんですよ。

 

そんで、長野県はプルーンの一大産地で佐久穂町でもプルーンを推しに押しまくっています。

道の駅とかに行ってもプルーンがたくさん販売されています。

 

でも、私気付いてしまったんです。

道の駅に、プルーンよりも美味しい果物が売っているぞと。

それが「貴陽」っていうスモモになります。

 

すももって桃の一種なんでしょ?と思いますよね。

実はプルーンが逆に(何の?)すももの一種なんです。

すもももももももものうち

ややこしいですが、青紫がプルーン、赤紫がスモモって感じで良いでしょう。

 

んで、この貴陽が抜群に美味しい。

何が美味しいって、その水水しい感じ。

口の下にティッシュを敷いてみたけど、まったく受け止めきれない果汁のしたたり。

正直、どうやって食べるのが正解なのか全く分からない。

シンクの上で食べるのが良いのかなぁ。

 

貴陽を食べた瞬間に分かりました。

「こりゃプルーンよりも美味しい。プルーンじゃなくて、貴陽を推したら良いのに。」

でも、貴陽って山梨県で作られたんですね~そういうオトナ事情で推せないんですね~

 

という事で、私が代わりに推しておきます。

佐久穂町の道の駅や町の駅(ややこしいが両方ある)に行ったら、プルーンでなくて貴陽ってスモモを買うべきです。

ん~やっぱり両方買っても良いかも。違いが分かって。

 

田舎に住んでて商品を選ぶときは、

果物名「すもも」だけじゃなくて

品種名「貴陽」だけじゃなくて

時期「8月」だけじゃなくて

生産者「○○さんちの」と厳選している事が分かります。

 

美味しい果物が安く手に入るのは、田舎暮らしの良い点かも知れません。

それでは。