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ロマソ派.webのブログ4代目です。

草が生えるほど語られたDXの、本当の話

DXって結局なんなのさ

2018年ころからDX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉が使われだして、Digitalは分かるけど、TransformationがどうしてXなの?(DXったらデラックスじゃないの?)と首を傾げたのもはるか昔。 2026年の今ではすっかり地位を確立し、あっちもこっちもDXが使われ、もう既に使うのが恥ずかしいくらいです。草が生えてしまう。

結局DXって何なのさ?に回答する解説動画もたくさん回りに回りましたが、どの動画でも言っている 「大切なのはトランスフォーメーションの方で、デジタルは手段だって言っているだろ!」 が、ことのほか浸透しておらず、既存のやり方をデジタル化して、紙とデジタル運用の併用によりむしろ効率が落ちた。 みたいなことになっています。

ポーズだけ得意な私たち

私たちは、言われたことを行うポーズだけは得意なので、デジタル化してDX活動していると叫んでいたわけです。 そのポーズが大事になったのはコロナの影響があったのは言うまでもありません。 2020年から2023年までの丸々3年間、私たちの生活を一変させたコロナは、当初の予定だと思わぬ副産物をもたらすと思われていました。 それが他でもないDXです。

人との物理的な接触が制限される中で仕事をするために、リモートワークが普及し、デジタルツールを活用した働き方が進みました。 対面が制限されると、悪名高い判子リレーができなくなるから意思決定フローが変化すると思われていたし、対面の情報交換を補うためのチャットなども進展する、はずでした。 中にはコロナを機に意思決定フローや情報交換方法が変わった企業もあるでしょう。 ですが、ほとんどの企業はデジタル化を行っただけで、トランスフォーメーションの方は行えていなかった。 (まぁ、もともと日本には中小企業がほとんどなので、デジタル化ですら実施不可だった面もありますが)

「やっぱりアナログだよ」という誤解

とどめとなったのは、AmazonやGoogleにおける出社回帰の流れです。 完全リモートを見直したこれらの企業は、週5日の出社やハイブリッド出社に方針を変更しました。 これを見てDXのポーズを取っていた多くの社会人はこう考えるようになります。

「やっぱり、デジタルよりも人と人との関係性だよな、アナログだよ。ハートとハート。」

ということで、日本でもリモートから出社に方針が変更され、2018年のあの日に戻りましたとさ、ちゃんちゃん。

「大切なのはトランスフォーメーションの方で、デジタルは手段だって言っているだろ!」 と叫んでいる専門家の方々の声が遠くで響きます。

出社回帰の本当の理由——「集積のメリット」

さて、ここで少し立ち止まって見返しましょう。 見返すのは「どうしてAmazonやGoogleは出社回帰の流れになったのか」という事です。 この解説は様々に書いてあるので省略しますが、すごく端的に言うと 出社のメリットがリモートのメリットを上回ったから という事になります。

様々な解説はいずれも、出社のメリットとリモートのメリット(あるいはその逆)について書かれています。 出社のメリットとは、たくさんの人が同じ場所に集まる事によるメリット、と言えます。 これを経済学では「集積のメリット」と言います。 人口減少が国単位で進呈する日本においては、「集積のメリット」を注目しなければなりません。

出社とリモートを例にして集積のメリットを説明します。 実は、両方とも集積のメリットを高める効果があります。

出社=たくさんの人が同じ場所に集まるメリット これは想像が簡単かもしれません。仕事の以外のコミュニケーションにより生産性や効率性も高まりそうですよね。 人にはそれぞれ得意・不得意な作業があるので、ある作業は得意な人に集めれば全体の作業効率が上がります。これを分担と言います。 人にはそれぞれ知っている・知らない知識があるので、あるアイデアに他の人がアドバイスをしてイノベーションが起こる事もあります。

リモート=遠くにいる人同士がオンラインでコミュニケーションするメリット リモートが提供しているのは、空間と時間の圧縮になります。 人は様々な場所で生活をするので、1か所に集まるには移動と移動時間が必要になります。 世界中のあちこちに社員がいる場合は、移動と移動時間を圧縮するメリットが高まります。 これは、空間・時間・情報を集積していると言えます。

両方に集積のメリットが存在していますが、コロナを経て、メリットを比較すると出社の集積メリットが高かった。 デジタルはあくまで手段であり、デジタルをしたかったからリモートにしたわけではないのです。 だから、出社に戻すのも当然の話です。

と言う風に見返すと、このセリフは半分あっていて半分間違っている事が分かります。 「やっぱり、デジタルよりも人と人との関係性だよな、アナログだよ。ハートとハート。」

正確に言うとこのようになります。 「やっぱり、人が集まる集積のメリットは、デジタルを使った空間・時間・情報の集積メリットよりも、思いのほか大きい。」

そう、人が集まる集積のメリットを私は否定していません。 人が集まる事で、人類は発展してきたと言っても良いとすら思っています。

人口減少という、避けられない現実

・・・ただね、ただ、日本はこれから未曾有の人口減少です。 2026年現在、生産年齢人口の減少は高齢者よりも早く進んでいて、いいかげん身近にも影響が出てくるようになってきたと感じるのではないでしょうか。 お店が減った、病院の担当課が減った、バスが減便した、自治会の役員やる人がいない、お盆なのにお墓掃除してくれる人がいない、などなど。 これらは全て、人が集まる集積のメリットが低下したことによるものです。 単純に需要が減ったということではなく、1人あたりの影響度が上がったと言えます。

例えば、自治会の役員をやる人がいないのは、これまで50人でやっていた自治会が30人になって1人あたりの負担が大きくなっているからです。 これまでは人数がいたから、役員の作業を分担したり助けたりすることができましたが、人数が減ると自分のやる事で精いっぱいになります。 この状況では自治会の役員をやる人は現れません。

会社でも同じで、これまで50人の会社で1人は毎日銀行に行ってお金をおろしたり備品を買いに行けたのは、50人分の1人だったからです。残りの49人で他の仕事ができた。 ですが、これが30人の会社になったら、銀行と備品購入で毎日いない人が現れると影響が大きくなります。30人分の1人になるからです。

学校でも、クラブ活動でも、病院でも、役場でも、町内活動でも、草刈りでも、墓掃除でも、人数が減る事による集積のメリットの低下は効果が大きく、即効性もあります。 人数が増えることと同じ分だけ、逆の効果も甚大に素早く発生します。

それじゃあ、どうするか

じゃあ、どうしようか。 人数を増やそうと考えてしまいます。人が集まる集積のメリットは先ほど記載したとおりだからです。 それができれば良い。そして、持続可能ならば更に良い。 ただ、これからの日本で人数を増やせる地域、会社、自治体、町内活動、家族、はどれくらいあるでしょうか。 全体の人数が減っている今、全てではないでしょう。人口減少は既に東京以外のすべての道府県で起こっています。

それじゃあダメだぁ、おしまいだぁ。

「大切なのはトランスフォーメーションの方で、デジタルは手段だって言っているだろ!」 と叫んでいる専門家の方々の声が遠くで響きます。 集積のメリットを高めるのは人口増加だけではないのです。

DXの再定義——人口減少に負けない集積のメリットを作る

リモートでは空間・時間・情報を集めることにより集積のメリットを高めました。 人を集めるよりもメリットは少ないですが、それでも集積のメリットを高めるのです。 人数が減っていく状況で○○を集めて集積のメリットを高める。 これを1つじゃなくて、複数行ったり組み合わせたりデジタルを使ったりする。 その結果、人口減少と言う集積のメリットの低下を上回る効果が得られたのであれば、人口減少が来ても大丈夫になります。 DXと言うかデジタルは、集積のメリットを高める1つの手段に過ぎません。

DXを再定義すると、人口減少に負けない集積のメリットを作る、と言っても良いと思います。 専門家の方も当たらずとも遠からずくらいで容認してくれるんじゃないでしょうか。

はぁ、というのがDXを行う前提です。みなさん、ご認識頂けましたか?

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」って言葉って最初はどんな時に使われたんだろう

最後のサンタさんのプレゼントを覚えていますか?
私の場合、最後にサンタさんが来たのは小学校6年生の時でした。
PlayStationが欲しい!と毎日願った。すんごい願った!手紙も書いた!
でも届いたのは、「ことわざ辞典」と「四も熟語時点」のセットでした。
信じられなさ過ぎて2度寝しちゃいました。(これは夢かも知れないと思いたかった)
 
良かれと思って届けられた「ことわざ辞典」と「四も熟語時点」ですが、私はもちろん読む気にはなりませんでした。
ですが、ひょんな事から子どもってそれ系の本に夢中になることがあります。
私の身近な子どもたちも「ことわざ辞典」と「四も熟語時点」(現代版のマイクラが解説してくれるやつ)を読んでいました。
 
そこで聞かれたんです。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」って言葉って最初はどんな時に使われたんだろうね。
 
ふむ。確かに分からん。
私の中では「やりすぎると逆に良くないよね」みたいな感じで使ってたりしますが、
やりすぎるのは足りないのと"同じ"だよって意味合いがありますよね、言葉自身には。
「やりすぎとやらない(不足が)が同じ」ってどういう状況?やりすぎの方がまだ良くない?と思うわけです。
 
という訳で調べてみたら、ことわざになるだけはあってやっぱり大事なことを言っていました。
今回は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」についてです。
 
 

生まれは孔子(儒教)だった

 
まず、子どもの疑問から解消しましょう。
どんな時に使われたかというと、孔子が弟子に言った言葉のようです。
 
孔子には弟子が2人いまして、そのうちの1人が孔子(師匠)に聞いたそうです。
「私ともう一人、どっちの方が優れていますか?」
(私の方に決まっていますよねぇ)という魂胆が見え見えですが、孔子はこう返します。
 
「お前は優秀すぎる。もう1人は不足している。」
「ってことは、俺の方が優れているんですよね?ひゃっほい!」
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
 
と言ったと。。。はて?
 
ここでは、状況に最も適した状態から2人は同じだけ離れている、という意味合いでした。
だから、過剰も不足も同じだけ離れているって意味合いになるんですね。
 
詳しくは調べてみましょう。
 
 

中庸ってのがある

 
状況に最も適した状態を「中庸」と言います。
例としては塩加減を出していました。
料理に塩が全く入っていないのと、塩が大量に入っている。
前者は味がしないし、後者は塩辛くなる、という全く異なる事象になりますが、
美味しい料理としては両方「まずい」という結果になるのです。
 
そして、中庸は固定値ではなくて、変動する点になるようです。
料理によって塩加減は異なるし、人によって好みの塩加減が違うって事でしょう。
 
 

前提条件の変化に気づけるか

 
中庸を知るには前提条件≒(その状況)を知ることが大切になるでしょう。
しかし、人にはバイアスがあるので、自分の中庸の話ばかりをして前提条件の話ができません。
 
例えば、子どもの勉強に対しての意見は様々です。
学校の勉強だけでなく塾に熱心に行かせている人もいれば、
できるだけ自然が近い環境で自由に育った方がいい、という人もいるわけです。
 
これは前提条件≒(その状況)を考えれば、どちらも自分の中の中庸を話している事が分かります。
受験戦争は熾烈を極めており、私立の学校に合格する、とすると勉強頑張れになるのは当然です。
自然の中で自由にの方にも前提条件があることでしょう。
 
ここで大切なのはどちらが良いか、ではなく、前提条件≒(その状況)によって中庸が変化することを認識する事です。
 
 

評価軸の固定化

 
多くの人が意見を戦わせているのは、およそ自分の中の中庸を押し付けあっているように見えます。
前提条件を話せば、評価軸が異なっている事に気づけるはずです。
評価軸が異なるが、同じ事象に出くわしてしまい、互いに引けない関係になっているだけなんじゃないかと。
 
また、塩加減の例で言うと、
ある人は料理が美味しいか、という評価軸で塩の量を言い
ある人は長期保存ができるか、という評価軸で塩の量を言い
ある人は塩の取りすぎは健康に悪い、という評価軸で塩の量を言っている。
 
いずれも、塩をどれだけ使うかという事象に対する、各評価軸が信じる中庸の押し合いになります。
この事象が無限(野菜、お金、健康、幸福など)にあり、評価軸が同じなら仲良くなれるし、違ったら反発したり離れたりする、だけのことです。
 

コミュニケーションコストとコンセンサスコスト

 
こうなると、事象そのものへの話はあまり意味がなく、その人の事を知りたい・理解したいのであれば、前提条件と評価軸を聞き出す必要が出てきます。
ですが、既に事象が無限なのに加えて、事象を通過する前提や評価軸も3次元で構成されると考えると、コミュニケーションコストが膨大になります。
私と弟子2人の孔子の世界でも割と大変でしょう。
 
そうなってくると、弟子の評価軸と自分の評価軸が違ったことを理解しているけど、弟子に他の評価軸を伝えるのも面倒だから
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
と言って、やらなすぎもやりすぎも両方ダメ=何をしてもダメ、ってことで話を付けた方が合理的かもなって思います。
 
互いに相手の事を理解するよりも、権威や暴力を使おうとどちらかの評価軸にした方がコンセンサスコストが圧倒的に低いのだろうな。
と思ってしまいました。

こうして田舎は自然に還るのかもしれない

連休を利用して、母の実家がある新潟県へお墓参りに行ったんです。
母の実家は新潟県と長野県の県境にあって、いわゆる豪雪地帯です。
冗談じゃなく3メートルくらい雪が降るので、雪かきは不可。できることは"かんじき"を履いて雪を踏みつけて道を作る。
雪踏みになります。

それゆえ、土台の高さがやたらと高かったり、2階に入口があったり、1階の窓は雪の重みで割れないように外側に木を渡してガードができるようになっています。
屋根から雪を下ろさないといけないので、電柱のそこかしこに梯子がかかっています。
消火栓も縦に2メートルくらいあって、出る場所が3つもあります。

いつも雪のことばかり考えている地域です。


小さいときは雪が沢山の場所に遊びに行くという感じで楽しかったのですが、大人はそうでもなかったようです。
一晩で50センチも60センチも雪が積もるので、いつも雪との戦いを強いられます。
屋根に積もった雪は家を不気味に鳴らし、寝ている時にもギシギシと音を立てます。

空き家となった母の実家は、しばらくしてから取り壊されました。
雪の重みで倒壊してしまうからです。
母の実家はすでになく、近所の親戚も全員いなくなってしまい、あるのはお墓だけになりました。


昔から思っていました。

こんな苦労(雪)の多い所に住まなくても良いのではないかって。

それでも雪以外の季節は本当にのどかで穏やかで自然がいっぱいで楽しい所です。
周りで助け合わないと生きていけないけど、助け合って生きてきたから、そんなに簡単に一抜けたってなれない。
かつては70世帯ほどいたらしいです。
私が見たごみ収集場所の可燃ごみ袋の数は2つでした。
いよいよって感じはあります。

今は何世帯が残っているのか分かりませんが、最後の姿がありありと見えてしまうと逆に、
今更他の所に引っ越して暮らそう、なんて気は起きないかもしれません。
覚悟が決まった人間ってのは、すごい力を出せるものです。

幸いにも、1世帯でも残っているのであれば、行政はその世帯を決して見捨てたりしません。
玄関先まで雪かきはしてくれないかもしれないけど、2袋のためにごみ収集に来てくれるのです。

ですが、私は彼らの心を折る最後のトドメが現れていると感じています。
それは、クマの存在です。

クマの目撃例が出たらしく、試しに箱罠を置いてみたところ、1メートルのクマが捕まったとのこと。
場所は、私たちが休憩しておにぎりを食べていた場所の、もうちょっと奥の空き家の庭。
あそこですか、、、こんな近くにクマがいるとは。


なんか、私にはクマがこの集落から人をゼロにする最後のトドメのような気がしています。
人口減少でも雪でもなく、最後は人の命を奪いにくるものへの恐怖が、覚悟の決めた人間を動かすと思います。
人が想像する死は、家の布団で最期を迎える(そこに親族がたくさんいたら喜ばしい)ことで、
クマに生きたまま内臓を食われる姿ではないのです。

こうして、私の母の実家からは誰もいなくなり、自然に還っていく事でしょう。
ということを、杉の葉が絨毯のように落ちているお墓までの道のりで思いました。

ダレもこの道をとおっていない。

最初に情報セキュリティ系の話を社員にする時のレジュメ

情報セキュリティの研修を始めて従業員に行う時、
「身近に合った事例」が現実感があって良い、というのは多くの企業で共通する反応でしょう。
自分に関係のない分野の話に聞こえてしまい、重要さがピンと来ないという事です。
情報セキュリティに限らず、IT関連の説明をする時は、従業員がどのレベルなのかを想定して話した方が良いと思います。

2020年頃の某所の職員のレベルで言うと、ざっくりこんな感じです。
・OSってなに?
・パスワード設定したらその人以外がパソコンにログインできなくて不便
・不審者がフロアにいたら気づくから大丈夫
・そもそも、取られて困るような機密情報なんか無い

日常的にパソコンを仕事で使う人でこのレベルでしたので、日常でパソコンを使わない従業員は今でも同じくらいのレベルかと思います。
しかも彼らはセキュリティの認識が低いという自覚はありません。
なんなら、会社にとって好都合だからあえてセキュリティを下げることすら行っています。(ログインパスワード設定しないとか)

そんな彼らには「もっとしっかりやれ」よりも「これからはこういう事も気を付ける時代になった」の流れが良いと思います。

1,なぜ会社として取り組むことになったのか(これは社長などのトップが話しても良い)
企業が信頼を失墜させる3つの脅威
・コンプライアンス違反(法令順守)
・ハラスメント違反(人権侵害)
・情報セキュリティ(これが最近追加されて、企業にとっても脅威となりうるので気を付けようって話)

2,情報セキュリティ事故①
飲み会でスマホを失くしてしまった!USBメモリが見つからない!(これまでも沢山あった、最近は信頼失墜が大きくなった)
事例

3,情報セキュリティ事故②
アサヒビールの事件(これの大事なところは、不正アクセスを許したところと、パスワードがバレたところ)
パスワードを入手されたことで、正規の社員として縦横無尽にアクセスされた。
社員証を持った社員が堂々と社内で不正を働いていた。

4、大事な情報は扱っていないと油断していませんか?
パソコンを踏み台にされて、他の会社へのアクセスを許す
パソコンを踏み台にされて、SNSでの誹謗中傷をされて民事訴訟になった

5,パソコン使った仕事をしないと油断していませんか?
あなたの家族にも脅威は迫っている。
あなたの知識で家族も守ることができる

6,じゃあどうした良いのか。
会社として6か条を作りました。まずはこれを守りましょう。

7,それ以上に大切な責めないマインド
ルールを守れなかった、小さなミスをしてしまったら、まずはエスカレーションしましょう。
でも、怒られそうで怖いですよね。
小さな事象の積み重ねで大きな事故を防いでいるんです。
だから、やってしまった人、報告した人を責めてはいけません。
優しい職場を作りましょう。

 

というくらいの流れにすると、従業員は少しセキュリティに前向きになってくれると思います。

関係性の変化:愛の分散モデル

まず出発点として、人間は霊長類の一種であり、その行動の多くは進化の過程で形成された生存戦略の延長にあります。恋愛、家族、結婚といったものも例外ではありません。人間は文化や制度を持っていますが、その基礎にあるのは「生き残り、子孫を残す」という進化的な圧力です。つまり人間は、置かれた環境の中で最も合理的な選択をしようとします。合理的というのは必ずしも意識的という意味ではなく、長い時間の中で結果としてそういう行動が残るという意味です。

この前提に立つと、愛という感情もまた生存戦略の一部として理解できます。愛は単なるロマンティックな感情ではなく、他者と強い結びつきを作り、協力関係を維持するための心理的装置です。霊長類の研究でも、仲間との結びつきが強い個体ほど生存率が高いことが知られています。人間の場合、この結びつきが恋愛や家族という形を取ることが多いだけで、基本的には社会的協力関係を維持するための仕組みです。

しかし、ここで重要なのは、進化的に見た人間の社会は「単一の関係に依存する構造ではない」という点です。狩猟採集社会では、人は一人の配偶者だけに依存して生きていたわけではありません。食料の共有、子育て、危険への対応などは集団全体で行われていました。つまり、人間の生存戦略はもともとネットワーク型であり、複数の関係に支えられていたと考えられます。

ところが歴史のある時点で、この構造が制度によって単純化されます。特に宗教や国家制度が結婚を強く規定するようになると、愛や生活の多くの機能が「夫婦」という一つの関係に集約されるようになります。近代社会ではこれがさらに強まり、恋愛結婚という形で「愛する相手=結婚相手」という構造が理想とされるようになります。このとき、一人のパートナーに対して、愛情、性的関係、経済的協力、子育て、心理的支えといった多くの機能が集中するようになりました。

この構造は非常に美しい理想ではありますが、生存戦略として見るとリスクの集中でもあります。一つの関係に多くの機能を依存させると、その関係が破綻したときの影響が大きくなります。経済で言えば、一つの銘柄に資産を集中投資するようなものです。もしその銘柄が暴落すれば、資産全体が大きく損なわれます。愛情関係も同じで、一人の相手に全ての愛着を集中させると、その関係が揺らいだときに心理的な破産が起きやすくなります。

ここで出てくるのが「愛のポートフォリオ」という考え方です。人間は複数の愛着関係を持つことでリスクを分散できます。例えば、パートナーとの関係、友人関係、家族関係、コミュニティ、趣味の仲間、さらにはペットなども含まれます。これらはすべて人間の愛着システムが向けられる対象です。一つの関係が弱まっても、他の関係が心理的な安定を支えることができます。これは金融でいうポートフォリオ分散とよく似た構造です。

現代社会では、この分散が自然に起きやすくなっています。社会保障や個人の収入によって、生活が特定の家族関係に依存しなくても成立するようになりました。さらにインターネットや都市生活によって、人間関係の選択肢も増えています。こうした環境では、人は一つの関係に全てを依存するより、複数の関係を持つ方が合理的になります。

実際に、現代社会では愛着の対象が多様化しています。恋愛関係だけでなく、友人関係、趣味コミュニティ、ペット、アイドルやキャラクターへの愛着など、さまざまな対象に愛情が向けられています。これらはしばしば「代替関係」として批判されることもありますが、生存戦略の観点から見ると、人間の愛着システムが多方向に展開していると理解できます。

この変化は結婚制度との間にズレを生みます。制度としての結婚は依然として「二人の関係」に多くの機能を集中させる形を取っていますが、実際の生活では愛着が分散しているからです。このズレが、現代の恋愛観や結婚観の混乱を生んでいると考えることができます。

こうした視点から見ると、愛の多極化は単なる価値観の変化ではなく、環境の変化に対する合理的な適応とも言えます。人間はもともと複数の関係の中で生きる動物であり、愛を分散させることで心理的・社会的なリスクを減らします。結婚という制度はその一部を担う関係として残るかもしれませんが、愛のすべてをそこに集中させる必要はなくなっているのです。

この理論を一言でまとめると、「愛の集中モデルから愛の分散モデルへの移行」ということになります。生物としての人間はもともとネットワーク型の関係を持つ動物であり、現代社会の条件の中でその構造が再び表面化していると考えることができます。

2029年問題ってのが来るらしいです。

2026年4月時点で働いている40歳の職員が高校時代に勉強した内容が持つ意味。
(高校時代の勉強とは分かりやすく共通一次試験での科目とする。)
そして、2022年から高校で情報Ⅰが必修授業となり、2025年から共通一次試験でもほとんどの国立大学で必須科目となっている2029年以降に働く出す人たちにとっての、高校時代の勉強した内容が持つ意味。
この2つの時点では情報Ⅰが必須となっているかいないかの違いであるが、私は明確に違いがあると考えています。

まず、情報Ⅰの教科書を見てみましょう。
情報Ⅰ
第1章:情報社会の問題解決
第2章:コミュニケーションと情報デザイン
第3章:コンピュータとプログラミング
第4章:情報通信ネットワークとデータの活用

情報Ⅱ(参考)
第1章:情報社会の進展と情報技術
第2章:コミュニケーションとコンテンツ
第3章:情報とデータサイエンス
第4章:情報システムとプログラミング
第5章:情報と情報技術を活用した問題発見・解決の探究
(日本文教出版より)

コミュニケーション、プログラミング、データの活用、ここに情報セキュリティも入るので、
システム開発会社でなくても新入社員教育の一環として実施しても良い内容です。
「企業で教えないといけない内容を、学校で教えてくれるなんて親切だなぁ」
と感じられてしまうほど、情報は高校の知識の中で初めて、

働く上での前提となる科目

になる可能性があります。


国語をやっていないようなもの

働く上で有利になる科目として「英語」が長らくその地位を持っていたでしょう。
グローバル化、海外展開をふまえて小さいうちから英語をやっている人は、今も昔も沢山いました。
結果はどうなのか分かりませんが、日本で働く多くの人にとって、英語ができないと仕事にならないって事はないと思います。
日本ではまだまだ日本語がブイブイ言わせているのです。

なので、働く上での前提となる科目ってのは
①問答無用で使われている汎用的な物
②その知識がないと仕事にならない物
という2つの性質を持っている必要があります。

現段階で、この2つの性質を満たすのは紛れもない日本語。
科目で言えば国語(現代国語?)になります。
我々が国語を習っていないとしたらどうなるでしょうか。

イメージとしては明治初期の日本を想像すればよいのではないでしょうか。
地域差、世代差、職種差、身分の違いによって使う言語が異なり、会話が困難。
識字率は塾が発達している都会では高いものの、田舎では読めない書けないは当たり前。
もちろん論理的な推論などもできない人が当然いるでしょう。

とまぁ、かなり「仕事にならない」状態になるでしょう。


情報科目は思考のフレームワーク

情報科目が国語と同じであるかと言われると、ちょっと違う気もします。
与えるインパクトはすごく大きいですが、国語が普及している上での情報科目となるのです。

目次を見て分かるように、情報は問題解決に使われるツールです。
つまり、課題を自分で設定して、情報を選定し、情報をこねくり回して、問題解決しよう というフレームになります。
このフレームワークは昭和平成の私たちとはかなり異なります。

私たちは、答えがあらかじめ決められている前提で、問題と情報を与えられ、情報整理することで回答を導きます。
ここで大切なのは、与えられた問題と情報自体を疑いもしない、という事です。
私たちはその通りに育てられ、そのように思考するようにできているのです。
答えなど決まっていないにも関わらず。


高校の知識、研修の内容、そもそも覚えていない。

と言ったことが、2029年の新卒(果たしてこの年に新卒を行っているのか微妙だが)が入ってきて起こるのでしょうか。
全く問題なく、これまで通りに、非効率な仕事に染まってしまうのでしょうか。

環境に染まってしまうは、かなり高確率で発生しえます。
なぜなら、高校の知識や、新卒の研修の内容なんてみんな忘れちゃうから。
次に、環境に染まって生きた方がかなり楽だから。

みんなで情報科目を勉強しよう。

心の一致: 文面と気持ちの不一致について

文面と気持ちが異なっていることはよくあります。
LINEでは全然怒っていない文面なのに、実際に対面するとめっちゃ切れているとか。
すごく傷ついているのに、平気なふりして文章送っちゃうとか。

よくありますよね。

私は文面(外部に発する情報)と自分の気持ちを一致させることが得意なので、他の人が日常的にその不一致を作り出していることに若い時に驚きました。
それゆえに「空気を読めない」とさげすまされてきたのですが、対処法が分かったのでどうにかなっています。
外部情報と気持ちの不一致は心身に悪いだろうな、皆さん色々気を遣って話したり送ったりしているのだろうなと思っていました。

この時に、自分でも無意識に思い込んでいたことがあります。
「気持ちと不一致な文言は、不一致のまま相手に受け取って欲しいと思っている」
という事です。

先ほどの例で言うと、
すごく傷ついている自分の気持ちではなく、自分は全然平気ですって相手に受け取って欲しい
と思いながら文面を送っていると、私が思っていたのです。

私のように空気読めない人には以下の式になります。

空気読めない人:気持ち(A)=外部情報(A)=相手に受け取って欲しい(A)
私以外の善良な人:気持ち(A)≠外部情報(B)=相手に受け取って欲しい(B)

だと思っていました。無意識に、当然のように、普通に、常識的に。
ですが、不一致な外部情報を相手に送っているにもかかわらず、相手には自分の本当の気持ちを察してほしいと考えているパターンがあることが分かりました。

発見したパターン:気持ち(A)≠外部情報(B)=相手に受け取って欲しい(A)

という事です。
数式を見ると、そういう場合もあるかなと思われるかもしれません。
京都人の「良い時計つけてはりますなあ」は同じように感じるかも知れません。
日本語では比喩、反語、婉曲表現、ぼかし、一般化などの直接的な表現を避ける手段を多用します。
ですが、いずれも 気持ち(A)=外部情報(A) となっているので、その表現方法(テクニック)を知っていれば伝わる、当人が伝わって欲しいと思っているという点が異なります。

 

まぁ、今回の事象を聞いてくださいよ。

 

私が帰宅するとパートナーがとてもぷりぷり怒っていたのです。
話を聞くとどうやら、車の配車調整をしていて、色々決まった後に直前になって「私はこっち方面に行くから配車を用意して」と言ってきたと。
その言い方も「直前になって申し訳ないのですが」の感じがなくて本当にムカつくと。
こっちも別にやりたくてやっている訳じゃないし、お金貰っているわけでもないのになんなのあの人本当になんだよ。とぷりぷりしていたのです。

こういう時の対応を心得ている私は、このシチュエーションに適した対応をするわけです。
それは本当にひどい話ですね。あなたは本当によく頑張っている。なんなんですかねその人は。
という内容を、うまくデコレーションして相槌を打っていたわけです。
(この時、私の気持ち「まぁ、そういう事もあるでしょ」は伝わってはいけないと思っている)

それでまぁ、パートナーの溜飲は下がったのですが、そのやり取りをしたLINE画面を見せてきたわけです。
文面を見ると、相手も言うほど失礼な言葉ではないし、何よりパートナーが送った文面は怒っている気持ちなど微塵も感じさせない丁寧で大人な対応だったのです。
まるでAIに添削して持ったかのようなちゃんとした文面でした。(自分で考えたらしいです)

ちゃんと大人の対応をしてて偉いね。
と伝えて更に溜飲を下げてもらおうとしたのですが、次の言葉に驚きました。
「そうでしょ~。でも、この丁寧な文面から、こっちが怒っているんだぞってことをくみ取って欲しい」

・・・え?

この文面から自分の気持ちを察してほしいと思っているのか?
それはもう京都人のアレとは別次元で、比喩、反語、婉曲表現、ぼかしなどではない、私に言わせれば「そこに存在しないもの」です。
これを許すと、コミュニケーションが破綻することにならないか?虚数解か?ディラックの海か?
などと頭がぐるぐるしていたのですが、

そ、そそ、そうだね~(何言ってんだコイツ、とは伝わってはいけないと思っている)

と生返事をしたのであります。


という事がありまして、日本人的なコミュニケーションの安パイに思いが巡りました。
私が思うに、日本人はとかく相手の気持ちを察するのに長けていると思います。
気持ちを察するのにも色々ありますが、「こういう差し入れをしたら相手が喜んでくれるに違いない!」という正の気持ちを察するというよりも。
「私の事を考えて相手が選んでくれたんだから、ちゃんと喜ばないと相手が不快に思うかもしれない」とか
「私の差し入れに対してすごく喜んでくれたけど、本当は重いと思っているかもしれない」みたいな、
どっちかと言うと負の感情を先回りするのが得意だと思います。

負の感情を先回りする、のはコミュニケーションの仕方が独特な事に加え、その行為が安パイだからの可能性があるなと思いました。
負の感情を先回りして相手に「本当はこっちの差し入れが良かったかもね、ごめんね」と伝えると、ほとんどの人は
「全然そんなことないよ、嬉しい」
と答えてくれるか。
「全然そんなことないよ、嬉しい(本当のところ良く分かってるじゃないか)」
と答えてくれます。

つまり負の感情を先回りすることが安パイになるのです。
この仕組みが良く分かっていない私ら見ると、「何そのお互いに謙遜しあう不毛なキャッチボールは」と見えてしまいます。
ですが、当人同士は安パイを切りあうことで対立を回避しているのです。

長い年月の経過によって、このスキルが定着しているのだと思います。
そして、そのスキルが一般的になりすぎると、「そこに存在しないもの」を受け取ったとしても、安パイを切るのが普通じゃない?
という発想になるのです。

という事を、今回は学びました。